一級建築士事務所   林建築設計工房

 

林建築設計工房の独り言  

 

 

日本の住宅 2012.12.2

 

 現代の日本の住宅産業による戸建て住宅はとても進化しているように感じる。海外の住宅事情など、ほとんど知らないのだが、たぶんそうだと思う。国の法整備の基、耐震性の確保や断熱性の充実、設備機器性能の向上もあり、頗る快適で省エネでもあり、建築金物から樋、サッシ到るところに高度な技術が存在し、安心で長寿命である。その上、進化との表現には相応しいとはいえないが、極めて安いものも存在する。住宅産業、すなわち住宅建設を主たる事業とする建設会社は1950年の建築基準法制定頃より、多くが設立され、発展してきていると思われる。

 これらに対して、日本の伝統工法による住宅は、代え難い趣をもち、日本古来の風景を形成してきた。現代で新築するにはコンクリート基礎が必要となるので純粋な伝統工法ではなく、伝統的な戸建て住宅ということになるかもしれない。高級品と位置付けられ、大工、左官、板金、瓦ほか多くの職人技が凝縮されているものもあろう。そこには確実に高度な技術が存在する。その性能を現代の物差しで測ると、断熱性も低く、オマケに安いとは言い難い。現代の物差しにおいてはレースが成立しているとは言い難い。

 日本の住宅産業は凄く優秀で、優良で比較的安く住宅を提供できる。だからと云って住宅産業の建て売り住宅が良いかと問われたならば、良いとは素直に感じられない。趣を感じるものが少ないと表現するだけの情緒的な説明では、説得力に欠けると思われる方も多いと思う。ただ、日本の住宅は変化し、今の混沌とした街を形成するに到ったのだ。だからと言って、伝統的な家が良いと説明することも難しい。断熱性やコストはもちろん無視などできない。一部のお金持ちしか買えない家では街並みは形成されない。街やコミュニティーをよくして、素敵な街を創りたいし、そこにずっと愉しんで住んでもらいたい。と思えば思うほど、多くの人達が手の届くものを手掛けたいと思う。

 

 だから、両者の良い部分を兼ね備えた次なる進化をしたいと考える。住宅メーカーとよばれる方々も様々で、それぞれが違う理念で違う家を建てる。大工仕事をメインに据える住宅を主に手掛ける工務店も、施工しながらいろいろ工夫されていることと思う。私が感じている歯痒さを抱き、進むことは、これまでも行われてきていたのだろうし、今もそう感じている方もたぶん少なくないと思う。一つ一つ創ることで良い住まいと良い街を実現したいのである。

 

 

 

 

 

 

名も無き建築 2012.7.2

 

 歴史を俯瞰できるほどの知識はないが、時代の政治・経済や思潮が街並みやデザインにも強く影響を与えてきたはずだ。国外からの宗教の伝来、交易などの人の行き来などの材料や工法の伝来や、国内からは材料や工法の発達なども上げられそうだ。いつの時代も新しいものを受け入れながら、変化してきたのである。現代は資本主義経済の発展を背景に材料や工法が急激に変化したといってもよいのではないか。性能を向上させる変化と価格競争からの変化が、進化なのか退化なのかはわからないが、このような時代が日本において、これまであったのであろうか。資本主義の世界では、個人の選択が繰り返される。行政の主導があり、それに則った民間の活動が存在し、その提案されたものから選択する行為が繰り返された。選択が多かったものは更に増加し、選択が少なかったものが更に減少した。街並みやデザインは社会が選択肢として、差し出しているといえると思う。同時に、個人が選択しているともいえるのである。今の街並みは日本人自身が選択した結果であり、過程なのだ。

 

 素敵な高性能の洒落たデザインの自動車に乗った人が、素敵なレストランで素敵な洋皿とフォークとナイフを使い、時には素敵な日本食屋で素敵なお椀と小鉢と箸を使って食事を愉しむ、クラシックのコンサートに行き、家ではJポップを聴く。素敵なスマートフォンを肌身離さず持ち歩き、家ではPCに向き合いながら、コーヒーを飲む。この生活の中には、多国籍、もしくは無国籍で、高度な工業技術に支えられた贅沢と愉しみが存在する。こんな生活をしている方もいるのではなかろうか。したいと思っている人もいるかもしれない。知らない間にそうなりつつある人もいるかもしれない。世の中の嗜好も多様であるが、一人の人間の嗜好すら、多様なのである。

 デザインの嗜好とは、自由なものだ。プラスチックや金属、木、ガラスなど様々な材料を使って、様々なデザインされたものがあり、魅力的なものが沢山存在する。工業化されたもの、プロダクトデザインと称されるものは、数多く製造されることで比較的価格も安く、中には極めて吟味されたものもあり、手軽に質の良いものが手に入る。自分でも一つ欲しいと思う物も少なくない。様々にデザインされたものが世の中に溢れんばかりに存在している。いいものはいいし、何を手に入れようが自由である。

 

 私自身の事いうと、モダニズムの時代の建築が好きだ。20世紀前半の建築は普遍的に思えるし、装飾が少ないところも性に合っている。一方、伝統的な日本建築もすごくいいと思う。また、外国を訪れたことは少ないが、ヨーロッパの街並みにもとても魅力を感じるし、テレビで見るイタリアの何気ない住居ですら、癒される感じがする。自分の中にも国籍を超えたとでもいうか、表現しがたい多様さのようなものが存在する。これが多様なのか、奥底に存在する共通項が存在するかを自分でも考えることがある。たぶん、それが自分なのである。普通に多様な価値を認める自分がいるのである。

 

 仕事柄、改修のご依頼や調査などに際して、古い建物や街並みを拝見する機会が多い。凝った造りのところが少なくない。神社仏閣のような特別の装飾を施した建築だけではなく、名も無き建築、普通の住まいのことである。何気ない軒の造り、飾り板金、建具、塗り壁、足元の束石など、上げると切りがないほど、細部に渡り目が行き届いている。密度が高く、どのように加工されたのかわからないところすらある。単に技術が高いだけではなく、その表現のバランスが極めて高いと感じる物も少なくない。これらは、所謂、日本の伝統的な意匠と表現されるものだ。それは単なるノスタルジーで片付けられない高い技術やデザインがそこには当たり前のように存在している。

 それを思いながら、自分の近所の界隈や新しい住宅地を見渡す。多様な価値を評価する自由で柔軟な価値観を持つ人が多い中、古い街並みから得られる身近にあるこれらの高い技術やデザインの感性を評価する感覚がもう少しあってもいいのではないかと思うのである。それは自分自身にであり、家を作る人達にであり、また家を求める人にである。もちろん、いないということではないし、積極的に評価する人々もいる。それが特別な存在ではなく、普通の人々に広がる必要があると思う。広く社会に対して願い、やはり作り手である自分が思いを形にし、現代に受け入れられる様な選択肢を提案しなければいけないのだと思うのである。作り手にとっては、提案は選択である。

 我々は、自由に選択できる今だからこそ、考えなければいけないことがあると思う。

 

 

 

 

 

50年後の日本の街 2012.6.22

 

 50年後の日本の街並みについて思うのことがある。

 当事務所は石川県金沢市にある、比較的古い建物が残っている地方都市だが、毎年数百棟の建物が解体され、空き地になるか、新築になるかして、古き街並みは変化して混沌とした状態になりつつある。もう既に混沌としているといっても良いかもしれない。

 戦前はまだそれぞれの地方が特色ある街並みを保ち、歴史の積み重ねに更に変化が程よく調和していたのではないかと考えるのだが、高度経済成長期以来、変化が大きく、またそのスピードが速く、歴史の積み重ねがすっかり失われるか、覆い隠されてしまって来ていると思う。新しい物を否定するつもりはない。新しい物が豊かさを届けてくれたともむしろ言えると思う。テレビをはじめとする家庭電化製品、自動車をはじめとする工業製品の発明や進歩は人々の生活を確実に豊にしてくれている。建物も同様に性能や機能が向上し、住みやすさや快適性を向上させ、商業、工業を盛況にし、福祉の基盤もつくられてきた。その一方、街は効率化と価格競争の波に呑まれ、以前の豊かな景観やコミュニティーを失いつつある。歴史の積み重ねとは、一度失われると回復することが困難なものだと思う。日本全土を、脈絡のない似たような無表情の建物が埋め尽くそうとしている。これを子供達が受け継いでくれるのかと疑問に思うような代物が少なくない。また、急激な変化に伴い、以前あったコミュニティーを失った街は、更に人々の孤立化を進めてしまうのである。

 

 更に変化が進むであろう50年後の街並みを想像すると日本がとても貧相になっているのではないかと心配になる。また、日本人のこころが保たれているのかもとても不安になる。

 

 だからと言って、歴史博物館のような街がいいということではない。価値のあるものを受け入れ、ほどほどのスピードで、うまく変化、もしくは進化を遂げる必要があると考える。やはり、愛着を抱けないもの、広い意味で快適でないものは壊されていくと思う。あなたや周囲の人達にとって、大切に思える建築が少しでも増えることを切に願い、考えるのである。

 

 

 

 

 

 

 

熊本地震の調査ボランティア 2016.7.1

 

 僕自身、普段より、多くの皆さんに助けて頂いておりますので、僕のできることで、微力ではありますが、恩返しをしたいといつも思っています。先日、所属する協会に熊本地震の被害調査支援の要請があり、ボランティアとして参加募集がありましたので、熊本地震でご苦労されてる方々に僅かではありますが、協力したくて行って参りました。僕の所属する協会は日本建築家協会(JIA)です。地震調査に参加することは、僕自身の建築知識の向上にも繋がり、その知識を活用して、多くの皆さんに建築設計を通して、またお返しもできるので、気持ちの上では一石二鳥でもあります。


 熊本地震被害の二次調査に7月1日、一日だけでしたが、行ってきました。調査は5月から継続的に行われ、件数も多いので、まだ暫くは続くことと思われます。二次調査は罹災証明の発行に絡み、一次調査されたお宅で再調査の依頼があった建物を改めて調査するもので、調査は内部、外部全体に細かく点数で積み上げられ、全壊、大規模半壊、半壊、一部損壊を区分する判断根拠となります。専門員として、それぞれの判定をするのがJIAの仕事でした。調査は5人一組で行われ、判定員以外は行政の皆さんで、調査した嘉島町以外にも、静岡県、神奈川県、石川県など多く行政職員が参加されておりました。JIAの参加者も全国から来ており、その日は新潟、富山、千葉、石川と福岡からの参加でした。

僕が調査したのは4件でいずれも木造で、大規模半壊、一部損壊、半壊、一部損壊の判定でした。それぞれ被害に違いがありますが、直すことを考えると何れも難問です。経済的な負担は、一般的な視点でみると見かけ以上に掛かると考えられます。やはり、被害を受けても損傷を受けにくく、復旧費用が少なくて済むことは大切なことと思います。調査した建物や周辺の様子から感じることは、やはり地盤の善し悪しが被害に大きく関係しているように思いました。地盤の良くないところは、他の地震地の視察でも被害が大きいところが多く、今回も同じように感じました。地震は避けることができないので、今後も被害を抑えるように設計に取り組みたいと思ってます。

出入り3日でしたが、有意義な時間でありました。

 

 熊本地震でお亡くなりになった方のご冥福をお祈り申し上げるとともに、被災された皆様の一日も早い復興をお祈り申し上げます。熊本頑張れ!みんな頑張れ!

 

 

 

 

 

ずっと暮らしたくなる家 2017.5.20

 

 

 

 ずっと暮らせる耐久性や快適性なんてものももちろんですが、古くなっても、汚れたりしても、傷んでも手直ししてでも、大事にしたい。家族の思い出も詰まっているし、なんだか古くなっても愛着がある、そんな家を創りたいといつも思っています。

 

 家族があって、暮らしがあって、その次くらいが家だと思います。ある意味建物である家は脇役です。ですから、家族の為に、暮らしの為に役に立つことが当然です。加えて、もっと楽しく暮らして欲しいし、大事にもしてもらいたいので、様々な魅力をちりばめて、家族と暮らしを応援したいのです。贅沢しなくても、愛着のある家で、多くの苦労があっても、小さな素敵な思い出を添えられると、もう大事にせずにはいられない家になりますよね。


 家を建てることが一世一代の大事業であることは、概ねその通りだと思いますが、一代で一軒の家には少々疑問があります。「両親が建てた30年ほど経った家があるんですが、建て替えた方がいいですか?」のようなご相談が結構あります。一般的な家の寿命って手直しすると100年以上持つと思いますが、ものとして100年もっても、手直しして住みたいと思わせるような愛着や魅力が足りなくて、壊されてしまうことが多々あります。親から子へ、子から孫へと引き継げるような時代を超えて魅了できる家がいいし、ものを大切にする思いが引き継がれるとも思うんです。
 

ずっと暮らせると他にも良いことがあります。既存の町並みの変化というのは、壊されるものがあって、新しいものが建ったり、空き地になったりすることで進んでいくことが多いと思います。建物が永くもつと、変化が緩やかになって町の風景が維持されるのです。 その地域に相応しい風景って、とても大切なものと思います。全国各地のその地域の風土や歴史が町並に反映されているのです。古いところは古いなりに、新しいところもそれなりにです。時間が掛かって形成された風景も、壊すことは容易で短期間で壊れてしまうでしょう。一旦、壊れてしまうと元に戻すことはとても難しいことです。ですから、相応しい町並みを形成しつつ、大事に一つずつ創りたい、または直したいですね。

 

 誰もが思うかもしれないこんな当たり前のこと、とても大切にしたいなと思います。

 

 

 

 

 

 

 

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