名も無き建築 2012.7.2
歴史を俯瞰できるほどの知識はないが、時代の政治・経済や思潮が街並みやデザインにも強く影響を与えてきたはずだ。国外からの宗教の伝来、交易などの人の行き来などの材料や工法の伝来や、国内からは材料や工法の発達なども上げられそうだ。いつの時代も新しいものを受け入れながら、変化してきたのである。現代は資本主義経済の発展を背景に材料や工法が急激に変化したといってもよいのではないか。性能を向上させる変化と価格競争からの変化が、進化なのか退化なのかはわからないが、このような時代が日本において、これまであったのであろうか。資本主義の世界では、個人の選択が繰り返される。行政の主導があり、それに則った民間の活動が存在し、その提案されたものから選択する行為が繰り返された。選択が多かったものは更に増加し、選択が少なかったものが更に減少した。街並みやデザインは社会が選択肢として、差し出しているといえると思う。同時に、個人が選択しているともいえるのである。今の街並みは日本人自身が選択した結果であり、過程なのだ。
素敵な高性能の洒落たデザインの自動車に乗った人が、素敵なレストランで素敵な洋皿とフォークとナイフを使い、時には素敵な日本食屋で素敵なお椀と小鉢と箸を使って食事を愉しむ、クラシックのコンサートに行き、家ではJポップを聴く。素敵なスマートフォンを肌身離さず持ち歩き、家ではPCに向き合いながら、コーヒーを飲む。この生活の中には、多国籍、もしくは無国籍で、高度な工業技術に支えられた贅沢と愉しみが存在する。こんな生活をしている方もいるのではなかろうか。したいと思っている人もいるかもしれない。知らない間にそうなりつつある人もいるかもしれない。世の中の嗜好も多様であるが、一人の人間の嗜好すら、多様なのである。
デザインの嗜好とは、自由なものだ。プラスチックや金属、木、ガラスなど様々な材料を使って、様々なデザインされたものがあり、魅力的なものが沢山存在する。工業化されたもの、プロダクトデザインと称されるものは、数多く製造されることで比較的価格も安く、中には極めて吟味されたものもあり、手軽に質の良いものが手に入る。自分でも一つ欲しいと思う物も少なくない。様々にデザインされたものが世の中に溢れんばかりに存在している。いいものはいいし、何を手に入れようが自由である。
私自身の事いうと、モダニズムの時代の建築が好きだ。20世紀前半の建築は普遍的に思えるし、装飾が少ないところも性に合っている。一方、伝統的な日本建築もすごくいいと思う。また、外国を訪れたことは少ないが、ヨーロッパの街並みにもとても魅力を感じるし、テレビで見るイタリアの何気ない住居ですら、癒される感じがする。自分の中にも国籍を超えたとでもいうか、表現しがたい多様さのようなものが存在する。これが多様なのか、奥底に存在する共通項が存在するかを自分でも考えることがある。たぶん、それが自分なのである。普通に多様な価値を認める自分がいるのである。
仕事柄、改修のご依頼や調査などに際して、古い建物や街並みを拝見する機会が多い。凝った造りのところが少なくない。神社仏閣のような特別の装飾を施した建築だけではなく、名も無き建築、普通の住まいのことである。何気ない軒の造り、飾り板金、建具、塗り壁、足元の束石など、上げると切りがないほど、細部に渡り目が行き届いている。密度が高く、どのように加工されたのかわからないところすらある。単に技術が高いだけではなく、その表現のバランスが極めて高いと感じる物も少なくない。これらは、所謂、日本の伝統的な意匠と表現されるものだ。それは単なるノスタルジーで片付けられない高い技術やデザインがそこには当たり前のように存在している。
それを思いながら、自分の近所の界隈や新しい住宅地を見渡す。多様な価値を評価する自由で柔軟な価値観を持つ人が多い中、古い街並みから得られる身近にあるこれらの高い技術やデザインの感性を評価する感覚がもう少しあってもいいのではないかと思うのである。それは自分自身にであり、家を作る人達にであり、また家を求める人にである。もちろん、いないということではないし、積極的に評価する人々もいる。それが特別な存在ではなく、普通の人々に広がる必要があると思う。広く社会に対して願い、やはり作り手である自分が思いを形にし、現代に受け入れられる様な選択肢を提案しなければいけないのだと思うのである。作り手にとっては、提案は選択である。
我々は、自由に選択できる今だからこそ、考えなければいけないことがあると思う。 |